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情報の収集と蓄積、そして消化・活用

知的生産あれこれ

2015年11月24日 プリンシパル 瀬戸口泰史(環境エネルギー第2部)

ドイツのメルケル首相の掲げるインダストリー4.0が注目を浴びている。最近は新聞にIoTの文字を見ない日はないと言って良い。「新たな産業用語のブームだな」「そう言えば“Smart”という言葉は長持ちしたなぁ」とボーっとした感想を持っていると今度は道を誤りそうだ。ITとつながって工業の姿が変わる。少なくとも超高精度の職人技を要する製品は別として、一般製品は少量生産をも含めてその生産体系、生産効率が大きく変わることになりそうだ。緻密な職人芸を誇りにしつつ、なおかつ工場での高度な生産技術を磨いてきた日本にとって、心中複雑な第四の革命である。

大きな変革と言えば、いよいよ日本でも電力自由化が本格化する。ゴールとなる発電事業と送電事業の分離分割(発送電分離)に向け、まず2016年4月からは電力の小売りが全面自由化される。皆さんのご自宅にも旧来の電力会社をはじめ、ポツポツと各種の案内が届いていることと思う。

当然、ここでも新たなビジネスとしてITを駆使した新サービスが様々検討されることとなる。最近、電力専門家やビジネス創生を目論む新規参入者を交えた社外での議論に複数回参加した。手垢のついたアイデアも多かったが、やはり情報技術を末端まで組み込むことで、これまでとは異なる世界が生まれるのだろうという予感がする。ただ、そこで気になったのは、将来の仕組みや社会に目が向きすぎる反面、何故、現状の制度になったのか、今回の制度改革の趣旨、あるいは規制緩和がこれまで進まなかった根本理由などを体系的に理解できていない参加者が少なくなかったことだ。そもそもベンチャー的性格を帯びていた電力業であったものが、モノポリーを是認した現行電力制度の設計思想、通信自由化から現在までの推移、大店法の緩和撤廃の功罪など、今度の自由化にあたり参考とすべきことはさほど多くないにも拘わらず、である。席上、技術・サービス議論に熱中するあまりの視野狭窄感を強く抱いたが、いずれの場合もこのような背景を俯瞰することで地に足のついた将来議論に移ることができた。自由化とは新秩序への移行であって、淘汰はあったとしても、エンドユーザーに不利益が生じることは本来あってはならないはずだ。

閑話休題。会の終了後の懇親会の席で、どうやったら間接的に関連する事象に触れることができるか、ということが話題となった。インターネットが普及しても、切り口が異なった途端にアクセスが極めて難しくなる、持っていない課題にはそもそもたどり着けない、などということが共通の悩みとして浮上した。

インダストリー4.0から遡り、「第三の波」が提唱されたのが1980年頃。実は先の東京オリンピック(1964年)当時から「情報化社会の現代は云々・・・」「情報の洪水」などという枕言葉は随所に用いられていたように思う。溺れる洪水の規模たるや今日から思うとゴミみたいなものであるが。

さて、その「情報化」社会に溺れ続けている50年間、先人はその海の中で自身の能力を高めるための様々な工夫を行って来ている。また、先達の智慧・旨い方法を自身にも取り入れようということで定期的にベストセラーも登場している。枚挙に暇はないが「知的生産の技術」(梅棹忠夫、1969年)、また「知的生活の方法」(渡部昇一、1976年)が典型ではないだろうか。

後者は決してHow to本としてまとめられた内容・意図ではないものの、特に「知的エリート」に価値を求める多くのビジネスパーソンはこぞってこれらを買い求めた。不朽のロングセラーである。

一方、前者は方法論満載であった。登場する知的生産のためのツール達は、今から見ればあまりにも陳腐なものもあるが、それらのなかで私が今も参考にしている方法が「カード」である。民俗学者である著者が、アジア遊牧民のフィールド調査の際に用いた、カードメモのストックによる情報蓄積手法を関係者と磨き上げ共有した方法だ。今でも大きな文具店にはB6版の紙カード(いわゆる京大カード)のコーナーはあるはずである。

うろ覚えだが、梅棹氏の方法を紹介しよう。とにかく「気づき」を統一されたカードに書き込み、何でもストックするのである。カードを放り込む箱は一定の区分を設けることが基本だが、この区分を最初に定めることは否定される。蓄積を進めながら分類自体が変化していくのである。ある箱だけに集中して貯まるようであれば分類が粗いのであるから新たに細分化する。また複数の分類のどちらかに悩んだら同じカードを2枚作る。雑誌の切り抜きのようにサイズが異なるものであっても、折りたたんでカードに貼り付けることとし、小箱の中にはカードサイズ以外の媒体はない。論文を書く際には内容に関連する小箱のカードをめくり、意識下に埋もれている事実や思いつきを掘り起こす。抽出したカード(もしくはその要約コピー)を一定の論旨の下に束ね、並べると論文の骨格がごく自然にできあがる、というようなものであったと記憶している。

私は古い人間で、今でもこれに類した方法を用いている(さすがに最近は紙のカードではない)。ただし、蓄積の思想がいくつか原典とは根本的に異なることとなった。まず、何でも書きまくってストックする、ということが私にはできなかった。日曜日に伊東屋で何束かカードを買ってきて、さぁ今日から始めるぞ、と思ったがそれは適わなかった。カードが安くないのである。肝っ玉が小さいため自ずと蓄積すべき情報そのものを選別、カードを節約することとなる。だから、とにかく基礎財産としてのストックが増える、ということにはならないのである。さらに、性格がルーズなくせに変なところに几帳面なところがあり、記事を張る際にもナイフと定規を用い、糊にも拘って丁寧にやった。お気に入りの糊を切らしている時は貼れない。ペンで書き込む内容もかなり時間をかけメモ化するのが私のパターンである。カード一件に関するコスト(お金も、エネルギーも)がかなり高価なものとなったのだ。

また、小箱に移る前には手許に束ねてデスクに置いてあり、書き込んでからしばらくの間は繰り返しそれを眺めることから、かなりの部分が記憶に刻まれる。本来の目的である、意識から消える情報を蓄える、記憶容量を補うためのカードストックというものではなく、どちらかというとカード化されることは私にとっては「殿堂入り」のための儀式となったと言えよう。何かの文章を書く際にも、カードをめくってネタを思いつくことはまずない。事象の確認をする際に手早く終えることができる、という使い方である。この場合、副産物(同時に副作用)として、お気に入りのカードというものが育まれる。思考の硬直化でもあるし、私の持論の証左としての価値も大きい。むやみにストックが大きくなっても使いこなす方法を持たない私としては、このアプローチに大きな不満はない。

しかし、2015年の「情報化社会」。この作業に対して、やはりコンピュータの類を使わない手はなかろう。Google、Wikipediaなどにより情報ソース(ファクトとは限らないが)の確認にかかる時間は飛躍的に短縮された。これらにより個人が蓄えてきた知識の価値は大きく目減りしたことは否めない。娘と会話しながらでも、時間をかけて自分のものにした知識で話をしているのに、目の前でスマホをいじることで簡単に追いついてこられるとガッカリもするが、それは仕方なかろう。私も使う。後は如何にして自分の財産、栄養とするかである。

個人が巨大なデータベースを手に入れた今、それに頼りきることを潔しとしない私とて、個々の要素を結びつける便利なツールや方法論はないものか、と思い巡らす毎日である。Evernoteなど、思いついたら何でも放り込めるアプリがある。デスクに居らずとも、どこでも、文字でも写真でも何でも放り込めるという便利さはよくわかる。世界でも億単位のユーザがいるそうである。聖書が古くからインデックス化されているからか、あちらの方々はデータベースを上手に利用する遺伝子が備わっているのかも知れないが、私にはそれがない。消化されていない、意識に刻まれていない情報をいかにたくさん集めても発酵させることはできないのではないか、という固定観念から抜け出せない私である。情報の海からコピペして情報の湖を作ったとしても、25mしか泳げないのであればやはり溺れてしまうであろう。インターネット検索を常識として育った世代の方々から、こんな方法がある、というのであれば是非とも助けていただきたい。

少しは自分でも努力をしようと、この駄文を記すに際して「知的生産」をキーに“ググって”みたところ・・・
「新・知的生産技術-自分をグーグル化する方法」(2007年)
「Evernote 「超」知的生産術」(2011年)
・・・思わずため息が出た。情報にアクセスすること、貯めることは知的生産ではなかろう。

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