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臓器チップの話

チップの上に人を作る!?

2017年7月11日 経営・ITコンサルティング部 北川 さや香

チップの上に人を作る、などと聞くとギョッとするかもしれないが、想像されているような恐ろしいものではないことを最初に断っておく。本稿では、医薬品開発における革新的なツールとして近年注目を集めている臓器チップ (Organ on a Chip)について紹介する。

新薬創出への茨の道

1つの新薬の開発には9~17年、数百億~1千億円ものコストがかかるといわれている(*1)。そのような長い年月と莫大なコストがかかる一因として挙げられるのが、薬の候補となる物質の有効性や安全性を正確に評価する手法の欠如による新薬上市の成功確率の低さだ。

これまで医薬品候補物質の評価手法として、培養細胞を用いた実験や動物実験が長年行われてきた。しかし、培養細胞は低コストで比較的簡便に実験ができる反面、シャーレの中のように、生体内での環境とはかけ離れた状況に置かれているため、細胞が本来もつ機能を失い、薬物の投与に対して正確な生体応答を反映していない可能性があるのだ。

また、動物実験は薬物を投与した際に薬が体内をどのように巡っていくかといった全身での評価ができる反面、動物愛護上の課題や、ヒトと異なる種であるが故の種差の問題がある。種差とは、たとえば、サルでは出なかった副作用がヒトでは出たり、逆にサルでは出る副作用がヒトでは出なかったりといった現象である。前者のケースでは、薬が動物実験による安全性試験を通過してしまい、ヒトにおける臨床試験に移った段階で重篤な副作用が生じるなど有害事象が発生してしまう。一方、後者のケースでは、ヒトにとって特効薬となる可能性を秘めた薬が動物実験の段階で開発中止となり、新薬創出の道が閉ざされてしまうのだ。

このように、現状の医薬品の評価手法はさまざまな課題を抱えており、患者が待ち望む薬をいち早く世に送り出すためにも、ヒトでの有効性、安全性をより正確に評価できる新しい手法が切望されてきた。

臓器チップとは

臓器チップは、このような医薬品評価における課題を解決し、医薬品開発のブレークスルーとなることが期待されている技術である。

臓器チップとは、その名の通り手の平サイズのプラスチック製チップの上で臓器の機能を再現したデバイスである。チップ上にヒト由来の各種臓器細胞を搭載し、微細な流路を通じて酸素や栄養素を含む培養液を送りこみ、臓器の種類によっては電気刺激や伸縮などの物理的な刺激を与えて、生体内と似たような環境を作り出すのだ。それによって、従来の実験手法よりも正確な、つまりはヒト生体内と近い薬物応答が見られるのである。臓器チップの優れた機能は医薬品開発のみならず、化粧品や飲食品開発等においても利用できるのではないかと期待されている。

このようなチップデバイスには明確な定義がある訳ではないが、単一臓器の機能の再現を目指した「Organ on a Chip」、複数の臓器を連結した 「Organs on a Chip」、人体の主要な臓器を全てつないだ「Human on a Chip」などがある。Organ on a Chipは、特定の臓器に特化して薬物等の影響を評価することができる。一方、Organs on a Chipでは、たとえば1つのチップ上に心臓・肝臓・皮膚の細胞を搭載したものであれば、皮膚から吸収された薬物が肝臓でどのように代謝されるか、心臓にどのような影響を与えるかなど、複合的に薬物の影響を評価できる。Human on a Chipにまでなると、薬物を投与した際の全身における薬物動態を見ることが可能となるはずである。

現在は、Organ(s) on a Chipの研究開発が主流であるが、米国防総省国防高等研究計画局(DARPA)では、Human on a Chipの開発を目指した研究も進行中である。将来的には、患者自身から採取した細胞を用いてそれぞれの患者に合う薬を探すような、いわゆるオーダーメイド医療への活用を目指す 「You on a Chip:チップ上のあなた」の作製も検討されている。

臓器チップは、前述のように心臓や腸、肝臓、腎臓、神経などのさまざまな臓器・器官の細胞を用いて作られるが、中でも有名なのは2010年に米ハーバード大学ヴィース研究所で最初に開発された肺チップ(Lung on a Chip)であろう。これは肺の中の肺胞と呼ばれる、酸素の取り込みと二酸化炭素の排出を行う器官を再現したもので、肺胞の細胞をチップ上に配置し、かつ、呼吸する時の肺の収縮を物理的に模倣している。この肺チップを用いて、感染症をはじめ、肺疾患の原因となる微生物、微小粒子等に対する細胞の応答を検証したところ、実際のマウスの肺を用いた時と同様の結果を示したという。

実用化に向けて

このように臓器チップは画期的なツールとして脚光を浴びているが、現時点では医薬品評価技術としてはまだまだ道半ばであり、その実用化には技術の信頼性の実証をはじめ多くの課題が残されている。一方で、欧米ではすでに臓器チップの製品化に向けた取り組みが始まっており、大学発ベンチャーが多数出てきている。特に米国では、2012年から国家プロジェクトで臓器チップの研究開発を実施しており、2017年7月からは、次の段階として臓器チップの実用化を重視した5カ年計画が始まる。

欧州では、2013年に化粧品開発における動物実験が全面的に禁止されたこともあり、動物実験代替技術のニーズの高まりからイギリスやドイツ、オランダなどにおいて開発が進められている。日本においても、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)で、この夏まさに臓器チップの開発事業が開始されようとしている(*2)。

臓器チップの開発・実用化には、細胞を扱う研究者、チップの微細加工を行う技術者、ユーザーとなる製薬企業など、多種多様なプレーヤーによる協働が不可欠である。AMEDが開始するプロジェクトにおいて、オールジャパンの開発体制を構築し、我が国の強みであるiPS細胞を用いた臓器チップが開発されれば、日本の新薬開発が加速されるのではないだろうか。

  1. *1日本製薬工業協会「革新的新薬の創出に向けて」(2015年5月29日)
  2. *2平成29年度「再生医療の産業化に向けた評価基盤技術開発事業(再生医療技術を応用した創薬支援基盤技術の開発)」に係る公募について(2017年4月3日)
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